キリコの絵 №162


平成241017

キリコの絵


    僧院の 影地に(しる)き 昼下がり キリコの絵ごと 永遠の秋
 
秋たけなわ、地面にくっきりと落ちた黒い影と明るい日向の対比が秋の光の神秘を感じさせてくれます。先日、その景色を見ていて、まるでキリコの絵のようだと思いました。光と影の景色が切り取られた永遠の時間を示しているような不思議で神秘的な景色に思われたのです。 秋の光だからこそではないでしょうか。

キリコの絵は皆さんもご覧になったことがあると思います。私は高校三年生の時に受験雑誌に載っていた一枚のキリコの絵に大変な衝撃を受けました。その絵には「憂愁と神秘の通り」(原題は、通りの神秘と憂愁)とありました。回廊を持つ長い建物と覆いかぶさるような黒い影の建物の間の道を一人の少女が広場に向かって輪回しをしながら駆けていく絵です。

私はその絵に言い表すことの出来ない衝撃を覚えました。後年、キリコ自身が「ある種の天才的な作品から受ける不意打ちとか、あの不安な茫然自失の感情というのは生命が、というよりむしろ、万象の生命の論理的なリズムが、束の間停止してしまったように感じられるからだと思う」と言っているのを知りましたが、まさにその不意打ち、茫然自失だったのです。

キリコの言葉は彼自身の絵画に向けられていることが明らかですが、美術史家の多木浩二氏は次のように述べています。「私たちは気づかないが、現実の空間のなかにはもうひとつの見えない空間がある。このもうひとつの空間にこの光景がひそんでいるのである。私たちがふと不安を覚え、いいようのない恐怖を世界に感じるのも実はこの現実のなかにある非現実の空間を直感しているからである」(記憶と忘却・現代世界の美術17

私はこの多木氏の文章を読んで、私が高校生の時に感じたものを理解することが出来ました。多木氏はさらに「生の神秘、愛や喜びも実際はこのもうひとつの現実にあって現実からはかくされているのだ」と言っていますが、これは私たちの祈りの世界とまったく同じと言えるでありましょう。

いったい、私たちは(キリコの)絵のなかに入ったのだろうか。それとも外に入ったのだろうか。~峯村敏明~

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